オリエント急行、アール・デコの香り
パリで再び注目を集める「動く芸術」
フランス・パリの中心部、ルーヴル宮の一角に位置する美術装飾博物館(Musée des Arts Décoratifs)で、特別展「1925–2025 アール・デコ100年」が開催されています。
本展は、1920年代に生まれたアール・デコ様式の誕生から100年を迎える節目として、建築、工芸、デザインの進化を多面的に紹介しています。展示の中心には、歴史的な列車「オリエント急行」の再現モデルが登場し、多くの来館者が足を止めています。
この展示は単なる回顧展ではなく、デデザインを通して人と技術の関わりをもう一度見つめ直す試みです。1920年代に誕生したオリエント急行は、工業化の時代におけるヨーロッパの贅沢な旅の象徴でした。
今回の展示では、その列車を現代のデザイン思想と最新のテクノロジーで再構築し、これからの「旅のあり方」や「移動する時間の価値」を描き出しています。
アール・デコが生まれた背景と影響
アール・デコ(Art Déco)は、1925年にパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」で確立されたデザイン様式です。
直線的で幾何学的な装飾、金属やガラスの素材感、そして職人技を重んじる姿勢が特徴です。当時のデザイナーや建築家たちは、工業製品の中に芸術的な美を取り戻すことを目指していました。
このスタイルは、後の建築、家具、自動車、ファッション、そして列車デザインにも影響を与えました。現在の建築に見られるモダンデザインの原型ともいえる存在であり、合理性と美しさの共存を追求する思想が根底にあります。
美術装飾博物館の展示では、当時の家具や照明、宝飾品、ポスター、建築模型など約1200点が並び、アール・デコの多様な実例を体系的に紹介しています。特に、鉄道車両におけるデザイン思想の変遷を視覚的に理解できる点が評価されています。




新しいオリエント急行が描く未来像
今回の展示の中で最も注目を集めているのが、2027年に運行再開を予定している新型オリエント急行の模型です。
展示スペースには、1929年の「北極星号(Étoile du Nord)」の客室を修復した実物車両と、現代の技術で再設計された新型車両の3Dモデルが並びます。
設計を担当するのは、建築装飾家のマキシム・ダンジャック氏です。彼は、フランス国内外の職人やエンジニアと協働し、アール・デコの造形原理を現代のモジュール設計やサステナブル建材と融合させています。
新車両は、AIによる空間最適化や軽量素材の導入によってエネルギー効率を向上させ、同時に手作業による木材仕上げや金属細工を継承しています。これは、デジタルとクラフトが共存する新しい工業デザインの形として高く評価されています。
車内は、深い紺色のダイニングカーや深緑のバー車両など、落ち着いた色調で統一されています。家具は再生木材と真鍮を使用し、鏡面仕上げによって空間の奥行きを演出しています。照明はすべてLED制御で、時間帯やシーンに合わせて光の色温度を変化させる設計です。


「静けさ」をデザインするテクノロジー
新オリエント急行の特徴の一つは、「静けさ」を体験として設計している点です。
車体には防振構造と吸音素材が採用され、走行時の揺れや騒音を最小限に抑えています。空調システムも個別制御が可能で、乗客ごとに温度と湿度をカスタマイズできます。
テクノロジーは利便性を高めるためだけでなく、快適さや心理的安心感を支える要素として設計されています。こうした人間中心のデザインアプローチは、建築学やプロダクトデザインの分野でも注目されており、欧州連合のサステナブル・デザイン基準にも準拠しています。
「体験価値」を中心に据えたデザイン思考
展示を企画したアンヌ・モニエ・ヴァンリブ氏(美術装飾博物館キュレーター)は、「アール・デコは単なる美的様式ではなく、生活の質を向上させる思想である」と語ります。
アール・デコの本質は、装飾の美しさと同時に、日常生活を快適にする機能性にあります。今回の展示では、マレ=ステヴァンスやアイリーン・グレイといった近代建築家の家具デザインも紹介され、モダンデザインへの橋渡しとして再評価されています。
展示全体は、単に過去を再現するのではなく、アール・デコの精神を現代の都市生活や移動文化にどう適用できるかという提案の場になっています。訪れる人は、美学の歴史を追うだけでなく、「未来の生活のあり方」を想像する体験を得ることができます。
文化遺産とデジタル技術の連携
展覧会では、1925年の博覧会に出展された「フランス大使館の応接室」の完全再現も見どころの一つです。
木工、金属細工、テキスタイルなどの装飾技術が細部まで再現され、当時の職人技術の精度と美意識が伝わります。
この再現には3Dスキャンやフォトグラメトリ(写真測量技術)が活用されており、文化財修復の新しい手法としても注目されています。
これらの試みは、文化遺産のデジタルアーカイブ化にも貢献しています。展覧会の終了後も、データはオンライン上で閲覧できるように保存され、研究機関や教育機関に提供される予定です。
持続可能なデザインへの転換
新オリエント急行の開発では、環境負荷を最小限に抑えることも重視されています。
車体構造には再利用可能なアルミニウムと低炭素スチールが使用され、内装にはフランス国内の森林認証木材が採用されています。
また、照明と空調のエネルギー消費を監視するAI制御システムが導入されており、列車全体での二酸化炭素排出量を可視化できるようになっています。
こうした取り組みは、観光産業のカーボンニュートラル化を推進する国際基準にも合致しており、デザイン業界におけるサステナブルなモビリティの先進事例として評価されています。
デザインが社会をつなぐ
展示を見学していた来場者の一人は、「チケットを買って実際に乗るよりも、この展示で旅をしている気分になれる」と語っていました。
オリエント急行は、単なる移動手段ではなく、人と文化をつなぐ象徴でした。
その理念は、デジタル時代における体験デザインにも通じています。
デザインの役割は、形をつくることだけではありません。社会や技術、環境の変化に対応しながら、生活の質と人間の感情を結び直すことにあります。
今回の展示は、アール・デコを通じて、デザインが再び社会的な意義を取り戻す過程を示しているといえます。
デザインの再構築としてのアール・デコ
「1925–2025 アール・デコ100年」展は、デザイン史の回顧展であると同時に、未来のデザイン哲学を提示する場でもあります。
アール・デコの思想は、機能と美の融合、そして技術と感性の共存にあります。
それは、人工知能やデジタル設計が主流となる現代においても有効な視点です。
オリエント急行の再生は、過去を保存するだけではなく、新しい価値を創造する試みです。
そこに示されているのは、テクノロジーを駆使しながらも、人間の感覚と文化的記憶を大切にするデザインのあり方です。
デザインとは、過去と未来をつなぐ社会的行為であることを、この展覧会は静かに語りかけています。
参考情報
「1925–2025 アール・デコ100年」展
開催場所:美術装飾博物館(パリ1区)
会期:2026年4月26日まで
開館時間:火曜〜日曜 11:00〜18:00(木曜は21:00まで)
入場料:10〜15ユーロ





