PSL
人間中心のAIとは何か 文化と倫理がつくる未来の知性
人間を中心に戻すという挑戦
AIの進化が加速するほど、私たちはひとつの問いに戻されます。「人間とは何か」という問いです。
人工知能が文章を書き、絵を描き、作曲を行い、さらには新薬を設計し、金融を制御する時代。AIはもはや人間の能力を補う存在ではなく、社会全体の“知の構造”そのものを組み替え始めています。しかし、AIの設計思想が偏れば、社会そのものも偏ります。
それゆえ今、世界のさまざまな場所で、「人間中心のAI」を模索する動きが始まっています。
アフリカから始まる“ヒューマニストAI”
南アフリカのバイオメディカルエンジニア、ペロノミ・モイロア(Pelonomi Moiloa)氏。
彼女が率いるスタートアップ「Lelapa AI」は、アフリカ諸国の多言語社会を支えるAIの開発を行っています。
Lelapaとは現地語のセツワナ語で「家族」や「共同体」を意味します。
その名のとおり、同社のAIは英語ではなく、ズールー語、ソト語、コサ語など、地域固有の言語を理解し、農業や医療、気候変動といった生活に直結する課題を支援します。
モイロア氏はこう語ります。
「アフリカのAIは、データではなく“声”から生まれるべきです。
私たちは、機械に人間の現実を教えるのではなく、人間の現実に寄り添うAIをつくりたいのです。」
この哲学の背景には、「ウブントゥ(Ubuntu)」という思想があります。「私は、他者がいるから私である」という、アフリカ南部の共同体倫理です。
AIを「効率の道具」としてではなく、共感と連帯の技術として設計しようとするこの試みは、欧米中心のAI開発とは対照的です。
テクノロジーが世界の差異を消していく時代に、Lelapa AIは、文化を守る技術の在り方を提示しています。
フランスの研究機関(ENS)での討論|「AIの未来を選べるか」
2025年10月、フランスを代表する最高峰の教育・研究機関であるエコール・ノルマル・シュペリウール(ENS)では、思想誌『ル・グラン・コンチネン(Le Grand Continent)』による公開討論が開かれました。テーマは「私たちはAIの未来を選べるか」。
登壇者は、AI Now Institute共同創設者のメレディス・ウィッテカー(Meredith Whittaker)経済学者、2024年にノーベル経済学賞を受賞したダロン・アセモグル(Daron Acemoglu)経済学者、そして若手経済学者アントナン・ベルゴー(Antonin Bergeaud)氏ら。
彼らの共通の問題意識は、「AIが民主主義の構造そのものを変えてしまう危険性」にあります。
ウィッテカー氏はこう指摘します。
「AIは中立ではありません。“誰が設計したか”によって世界を再構築します。現在のAIは、少数の巨大企業による政治的プロジェクトなのです。」
実際、生成AIの訓練データやモデル設計は、アメリカや中国の企業に集中しています。
つまり、AIの“世界観”が、特定の文化圏によって形成されているのです。
アセモグル氏はこの構造を「知的植民地化」と呼び、民主主義が失うものをこう警告します。
「民主主義の力とは、“ゆっくり考える時間”にあります。しかしAI社会では、その時間が奪われつつあるのです。」
ベルゴー氏も同意します。
AIブームの背後には「実質的な生産性向上」よりも、「過剰投資による構造的バブル」があるというのです。
彼の言葉が印象的です。
「私たちはいま、技術ではなく速度に酔っている。」
AIがもたらす“効率”の先に、社会は本当に豊かになれるのか。この問いは、パリから世界に広がりつつあります。
超知能の時代に人間であり続けるために
AIの知能が人間を超える未来を前提とするなら、私たちは次の問いに答えなければなりません。「何をもって、人間と呼ぶのか」という問いです。
AIは計算し、予測し、創造する。しかしそれは、感情や死の意識を持たない知性です。
私たちの“人間性”とは、まさにその有限性から生まれるのではないでしょうか。
法学者でAI倫理研究者のルイーザ・ヤロフスキー氏はこう述べています。
「AIがどれほど知的であっても、それは“感じること”を知らない。だからこそ、人間はAIよりも深く、複雑なのです。」
つまり、人間の知性とは、答えを出す力ではなく、問いを持ち続ける力なのです。
この考えは、AIの「速度」への抵抗でもあります。
AIが“すぐに答えを出す”世界において、“ゆっくり考える”という行為そのものが、もはや人間の尊厳を守る最後の営みなのかもしれません。
AIと共に生きるという選択
AIはもはや止められない波です。しかし、その波の進む方向を決めるのは、技術ではなく人間です。
「AIが人間を超える」ことを恐れる必要はありません。重要なのは、「AIが何を学び、誰に仕えるか」を決める意思です。
AI時代のリーダーシップとは、最先端の知識を持つことではなく、人間の意味を手放さないことだと思います。
これからの時代に必要なのは、AIを崇拝することでも、拒絶することでもなく、共に生きるための設計思想です。それは技術ではなく、文化の問題。
AIは文明を試す鏡であり、私たちが「どんな人間でありたいか」を問うための道具なのです。
完結:AI革命の本質|超知能が問う「人間とは何か」
この3回シリーズは、AIを恐れるか受け入れるかという二元論ではなく、「AIをどう人間の側に引き戻すか」という視点で終わります
技術が変わっても、人間が問い続ける限り、未来は人の手にあります。
Amazonは2025年10月28日、コーポレート部門で約14,000人、全体の約4%にあたる人員を削減すると発表した。理由は、生成系AIやAIエージェントが定型的な業務を代替できるようになったためだという。
25年以上にわたり顧客体験の向上を目指して最先端のAI・機械学習モデルを開発・導入してきた巨大企業Amazonが、AIへの反感を招くような計画を、人事的戦略の説明もなく発表したことは失策だったと思う。
「人員を削減する」と言っても、今すぐに従業員を解雇すると言っているわけではない(最終的にはそうなるかもしれないけれど)。それでも、多くの人々が「AIに仕事を奪われるのではないか」という不安を募らせる結果になってしまっている。
ぼくは、人々が「やりたい仕事」をAIが奪うべきではないと思う。人々がやりたくない仕事や危険な仕事こそ、AIやロボットに任せるべきだ。
たとえば介護や建設、保安など、いわゆる「3K」と呼ばれる仕事に加えて、炎天下での人員整理や清掃作業、農作業など、気候的にも過酷な仕事がある。こうした肉体的・精神的に厳しい職種から、AI搭載型ロボットに任せていくべきだと思う。
「AIのおかげで楽になった」、「もっと多くのことでAIに助けてほしい」と人々が感じられるようになれば、AIと人間の共生はもっと健全で前向きなものになるはずだ。
特に人手不足で、移民を受け入れなければ成り立たないような職種については、政府が移民ビザの是非を議論する前に、まずAI搭載型ロボットで解決できないかを考えるべきだ。
たとえば介護職。肉体的に厳しい仕事が多すぎて、入居者一人ひとりに寄り添う余裕が職員にない。そのため、放っておかれる高齢者が多いのは日本もフランスも同じだ。職員による入居者、あるいはその逆の暴力事件も後を絶たず、「人間同士の触れ合いが大切だ」なんて理想を言っていられない現実がある。高齢者による介護職員への暴力も、見過ごされがちだけど深刻な問題だ。高齢者は大人しくて力も弱い、という思い込みがあるけど、認知症の症状には暴力的になったり被害妄想がひどくなる兆候もある。突然激昂され攻撃されたら、若くても反撃ができない職員には生命の危険もある。
病院も同様だ。看護師さんたちは忙しすぎて、患者の話にいちいち耳を傾ける余裕なんてないし、暴れる患者さんを力で押さえつけなければならない場合もあり、肉体的にもきつい仕事だ。患者側としても、それ以上負担はかけたくないけど、痛いときやつらいとき、頼りにできるのは看護師さんだけだ。口に出したって症状が良くなるわけじゃないことはわかっているけど、薬を飲んでも我慢できないとき、ただ話を聞いてもらったり、安心できる言葉をかけてもらうだけで心や体の辛さが軽くなることがある。はっきり言って、相手が誰かなんて考える余裕はない。弱音を吐ければ誰でもいいんだ。
そんなときこそ、対話型AIや看護ロボットの出番じゃないか。症状や愚痴をいつまでも聞いて慰めてくれる。そして緊急だと判断したときだけ看護師や医師を呼んでくれる。そんな存在が24時間そばにいてくれたら、患者はどんなにか安心できるだろうし、医師や看護師も余計な負担から解放されるだろう。暴れる患者さんに殴られたりしても痛くはない。
ぼく自身にも経験がある。入院中、看護師さんたちが忙しすぎて、ナースコールを押すのをためらってしまったり、苦しくても誰にも言えずに心細く感じたことがある。
フランスの病院は特に人手不足が深刻で、ナースコールをしても来てくれないか、来ても数時間後で、しかも不機嫌な対応ということも珍しくない。
看護師になった頃は皆が白衣の天使だっただろうに、常に誰かに呼ばれている状況では微笑むことも忘れてしまうのだろう、どのナースも表情がなくなっていた。フランス人は(もちろん人によって程度の差はあるけど)、仕事より個人の生活を優先する人が他国に比べて多い。だから、夜勤や休日出勤、緊急時には急な出勤要請のある看護の仕事などは就職希望者が少ない。特に女性は、子どもができると両立ができないと言って転職してしまう人が多い。そのため常に人手不足で更に負担が増え、更に人気がなくなるという負の連鎖に陥っている。(ちなみに医師も不足している)
以前、フランスはルーマニアと提携して「看護師専門の移民プログラム」を作り、多くのルーマニアからの移民がフランスの病院で働いていた。
病院の寮に住み、昼は看護助手として勤務、夜はフランス語の授業や看護学校に通うという仕組みで、仕事や住居を探す必要がなく、無料でフランス語を習得し看護師資格も取れる。言葉ができず、お金もない移民にとってはすごくいい話だよね。でも現実は理想通りに行かなかった。
昼は仕事で夜は学校なんて、いくら若い子たちでも体がついていかない。点滴を打ちながら、こっくりこっくりと居眠りを始める看護助手もいた。本来なら資格がないと注射や投薬はできないが、人が足りないためそんなことは言っていられない。文句など言ったら、次から注射も薬も来なくなるだけだ。
なにより怖かったのは、フランス語も英語も殆ど通じないことだった。夜間学校で学ぶといってもすぐに外国語で仕事ができるようになるわけじゃない。たぶん疲れて授業中に寝てしまうことも多いだろう。食事の配膳などは、身振り手振りで会話して楽しかった思い出もあるけど、ナースコールや点滴などで看護助手がひとりで来たりすると、正直恐怖だった。
実際、ぼくはペニシリンアレルギーがあるのに、ルーマニアから来たばかりの看護助手の女の子がカルテに書かれた「ペニシリンアレルギー」という単語を読めなかったばかりに、誤ってペニシリンの注射を打たれ、意識を失ったことがある。アナフィラキシーだった。
それでも病院側の過失にはならない。入院時に「すべて自己責任であり訴えません」と書かれた契約書にサインさせられているからだ。
そして、看護師になりたくて移民になったわけではないから、数年働いて正規のビザを得ると、病院を辞めてより楽で収入の良い仕事に転職してしまう。
結局病院は更なる人手不足に陥っているし、フランスの若者が就きたい仕事が、より安く働いてくれる移民に奪われる結果になっただけだった。政府も制度を作ったときはそこまで想定していなかったのだろうが、このような失敗は医療ミスだけでなく、移民問題にもつながる。もっと慎重に考えるべきだったと思う。もしあの時対話型AIが間に入ってくれていたら、AIは多言語対応だから、「ペニシリン」という単語もルーマニア語やフランス語で正確に伝えてくれただろう。というか、24時間いつでも来てくれて、どこがどう痛いですか?と聞いてくれたり、データを取って調べてくれたりする。そのうえ点滴してくれたり体を拭いてくれたり、配膳してくれたりするAIロボットがいたらもうそれで良くないか?医師や看護師は診察や手術に専念でき、医療ミスも減るだろう。そうした現場からAIやロボットの導入を始め、人々に感謝される存在として信頼を築いていけば、今のようなAIへの不信や反発は、もっと少なかったのではないか。今、AIに人間の仕事をさせるとしたらそれは、人間ができる業務を代替できるかどうかではなく、AIならではの能力を活かして人間にとって困難な仕事を代替できるかどうかで決めるべきだと思う。災害や戦争の復興支援計画と実行、地雷の発見・撤去など、求められる現場はいくらでもあるはずだ。