白いカプセルが、いまも稼働し続けている理由
病院の一角に置かれた、白く巨大な円筒形の装置。
初めて目にする人は、医療機器というより、潜水艦や1960年代のSF映画に登場する装置を思い浮かべるかもしれません。
これは高気圧酸素治療用のカプセルです。
フランスでは2025年現在も、およそ20台前後の装置が現役で稼働しており、ニースのパスツール病院では1967年からこの治療が続けられています。
AIやロボット手術、遠隔医療が進化する現代においても、この一見アナログな治療を求める患者は後を絶ちません。その理由は、単純でありながら非常に確かな医学的根拠にあります。
高気圧酸素治療とは何をする治療なのか
高気圧酸素治療は、通常よりも高い気圧環境の中で、純度の高い酸素を体内に取り込む治療法です。
カプセル内の圧力を上げることで、血液中に溶け込む酸素量が飛躍的に増え、傷ついた組織や感染部位にまで酸素が届きやすくなります。
この仕組みによって、細胞の再生が促進され、炎症が抑えられ、治癒のスピードが高まります。
もともとはダイビング事故や一酸化炭素中毒の治療として普及しましたが、現在では慢性的な創傷、重度の感染症、放射線治療後の障害など、幅広い分野で活用されています。
フランス各地で続く、静かな医療の最前線
フランス国内では、特にマルセイユの病院群が高気圧酸素治療の拠点として知られています。
市内にある三つの公立病院では、昼夜を問わず治療が行われ、年間のセッション数はおよそ1万回にのぼります。
緊急対応が必要なケースでは、深夜でもカプセルが稼働します。
ダイバー事故や急性中毒では、一回の治療が数時間に及ぶこともあり、医療チームは常に即応体制を整えています。
若者にも必要とされる治療
高気圧酸素治療は、高齢者や重症患者だけのものではありません。
3月6日の午前、21歳のエンゾさんは44回目の治療を終えたばかりでした。
彼は5か月前、スクーター事故で足を骨折し、手術で入れた金属部分に感染が起きました。
治癒を早めるため、医師から50回の高気圧酸素治療が処方されています。
「傷を治すには、まず十分な酸素が必要です」と語るのは担当医のクランジュ医師です。
慢性的な症状の場合、治療は一回およそ1時間半。これを毎日、根気よく続けます。
エンゾさんは「最初は時間を持て余しましたが、読書を始めてからは逆にこの時間が楽しみになりました」と話します。
同じカプセルに入るヒアニトラさんも、「静かな1時間半があると、本を一気に読めます」と笑顔を見せます。
一回の治療費は約300ユーロですが、フランスでは公的医療保険と補完保険によって、患者の自己負担は大きく抑えられています。
潜水艦のような治療室で行われる一連の流れ
午後になると、次の患者たちが治療室に集まります。
看護師が「今日は青い光にしますか」と声をかけると、すぐにうなずく患者も少なくありません。
カプセル内部の照明は調整可能で、青い光はリラックス効果があるとして好まれています。
初めて訪れた患者の中には、長い廊下の奥に鎮座する巨大な装置を見て、思わず足を止める人もいます。
「怖がる方もいますが、しっかり説明すると落ち着いてもらえます」とクランジュ医師は言います。
特に、大きな操作パネルや監視モニターを見ることで、管理されている安心感を覚える患者が多いそうです。
治療中、患者は常にカメラで監視され、圧力の変化は複数のモニターで確認されます。
約15分かけて水深15メートル相当の圧力に達し、そこから酸素マスクを通じて純酸素が供給されます。
治療終了後は、再び15分ほどかけてゆっくりと減圧されます。
万一に備えた厳格な安全対策
「緊急事態というのは、何も起きないと思っているときに突然起こります」と語るのは、看護師のヴァンサンさんです。
高気圧酸素治療チームは5年ごとに再訓練を受け、あらゆる事態に備えています。
最も注意が必要なのは、酸素過剰による痙攣発作です。
実際、年に1回から2回ほど発生することがあり、その際は即座に酸素供給を止め、患者を落ち着かせます。
しかし、最大のリスクは火災です。
酸素濃度が高い環境では、わずかな火花でも大事故につながります。
アメリカでは過去に、高気圧室内の火災で幼い子どもが命を落とす事故が起きました。
その教訓から、マルセイユでは電子機器や発火性の衣類、金属類の持ち込みが厳しく禁止されています。
知られていない治療だからこそ残る課題
高気圧酸素治療は、医学的な効果が確立されているにもかかわらず、一般的な認知度は高いとは言えません。
クランジュ医師は、その現状に複雑な思いを抱いています。
「いまだに信じるか信じないかという議論をする医師がいますが、医学は信仰ではありません。これは科学です」と語気を強めます。
現在では、血中に酸素を運ぶ新しい分子の研究も進んでいますが、臨床現場で即座に代替できるものはまだ存在しません。
そのため、高気圧酸素治療は今後も重要な役割を担い続けると考えられています。
「無理に患者を入れる治療ではありません。ただ、この治療には確かな未来があります」
そう語るクランジュ医師の言葉は、白いカプセルがこれからも静かに稼働し続ける理由を物語っています。






