
人工知能を活用して救急現場を支援する革新的なモバイルアプリ
救命の現場で、脳卒中(AVC)の迅速な判断は生死を分ける要因となります。しかしながら、的確な診断を即座に下すには専門知識と経験が必要であり、現場の救急隊員や消防士には大きな負担がかかります。こうした現実に対し、人工知能を活用して救急現場を支援する革新的なモバイルアプリがフランス南部・モンペリエで誕生しました。
このアプリを開発したのは、スタートアップ企業「AI Stroke(エーアイ・ストローク)」です。同社は、『Challenges』誌による「2025年に投資すべきスタートアップ100社」にも選出され、注目を集めています。
異色のキャリアから生まれた医療AIベンチャー
AI Strokeの創業者は、セドリック・ジャヴォー氏。かつて子ども向けの科学・語学キャンプを専門とする企業「Telligo」を設立し、2017年にスポーツキャンプ団体UCPAに2000万ユーロ(約32億円)で売却した実績を持つ起業家です。事業売却後、新たな挑戦を求めて母校エコール・ポリテクニークのAI修士課程に入学し、人工知能の研究に本格的に取り組み始めました。
そのきっかけとなったのは、彼の家族の体験でした。祖父母2人が脳卒中を患った経験から、「もしももっと早く異変に気づいていれば」という思いを抱き、医療分野でのAI活用を志すようになったのです。こうして2022年1月、AI Strokeはモンペリエで産声を上げました。
救急現場を支援する「AI神経内科医」
AI Strokeが開発したのは、スマートフォンやタブレットで使用できるモバイルアプリです。このアプリは、AIを用いて患者の脳卒中リスクを評価する機能を備えており、特に現場に駆けつけた消防隊員などの救助隊向けに設計されています。
フランスでは、緊急の場合には世界共通の緊急番号である112番に電話をすると、警察、消防隊、SAMU(緊急医療援助隊)につながります。医学知識のあるオペレータが救命・救助の必要性の有無を判断し、病気・怪我が原因である場合は治療用の装置を備えたSAMU、その他の救助の場合には消防隊に出動命令を出します。
脳卒中や心臓発作などの場合は本人がうまく話せなかったり、連絡をした人が詳細を把握していないことが多いうえに緊急を要するため、消防士が駆けつけることが多くなります。(原因がわからない場合はSAMUよりも消防のほうが迅速に出動できます)そのため消防士さんの迅速で正確な判断が、患者の生死を左右します。
アプリの基本的な使い方は、患者に「大きく笑う」「両腕を上げる」「簡単なフレーズを繰り返す」といった簡単な指示を出し、それをスマートフォンのカメラで録画します。アプリはその映像をAIで解析し、脳卒中の可能性があるかどうかを即座に判定します。
この技術は、1年間にわたりフランス・ニーム大学病院(CHU de Nîmes)で撮影された2万本以上の実際の診察映像を学習データとしてAIに与えた結果、構築されたものです。この臨床試験はフランスの情報保護機関「CNIL」の承認も得て実施されており、法的にも倫理的にも整備された中で開発が進められました。
「判断材料をひとつでも多く」救急隊の意思決定を補助
AI Strokeのセドリック・ジャヴォー氏は、「私たちは消防士を置き換えるのではなく、彼らが判断を下すための“もうひとつの目”を提供したい」と語ります。救命の現場では一刻を争う場面が多く、脳卒中かどうかの判断を誤れば患者の生命や機能に深刻な影響を与える可能性があります。アプリは診断を最終決定するのではなく、判断の精度を高めるための補助ツールとして機能します。
現在は消防士向けに特化して開発が進んでいますが、将来的には救急車を運用する医療機関や病院への導入も視野に入れています。脳卒中はフランスだけでも毎年大きな経済的損失を生んでおり、その医療費は年間100億ユーロ(約1兆6000億円)にも上ると試算されています。この課題に、AI技術で切り込もうとしているのがAI Strokeです。
CEマーク取得に向けた臨床試験と資金調達
AI Strokeは、すでに150万ユーロ(約2億4千万円)を調達しています。そのうち120万ユーロ(約1億9千万円)は補助金であり、残りは民間投資によるものです。次なるステップは、欧州での医療機器販売に必須となる「CEマーク」の取得です。そのためにはさらなる臨床試験が必要であり、今回AI Strokeは200万ユーロ(約3億2千万円)の追加資金調達を目指しています。
この資金は、すべての臨床試験プロセスをカバーするために使用されます。2026年後半には、アプリの正式リリースと商業化を見据えており、消防署や病院向けに本格的な導入を開始する予定です。
医療費削減と命のセーフティネット
AI Strokeの構想は、単にテクノロジーを導入するということにとどまりません。目的は、「命を救い、同時に医療コストを削減する」という、社会的なインパクトの最大化にあります。創業者ジャヴォー氏は「この投資はコストではなく、病院にとって“お金を節約する装置”になるのです」と強調します。
今後は消防士にとどまらず、救急車を運行する医療機関や地域医療拠点、さらには過疎地域における遠隔診断支援にも応用が期待されています。AI Strokeは、2026年の市場投入以降、急速な事業拡大を目指しており、2030年には年間3000万ユーロ(約48億円)以上の売上を見込んでいます。